先日、東京国立博物館の「国宝 土偶展」にいってきました。
最高、でした!
最近のどんな展覧会より、作者の情念のようなものが伝わってきた、
そんな気がして。
そして、そのデザインが、またすばらしい。
具象と抽象が同居しつつ、それがみごとに調和している。
いや、見事! のひと言です。
網野善彦さんは、「日本という国号が制定される前には、日本は存在しない」と書いていた。
であるなら、「日本文化を支える基層部」なる言い方をすればよいのか、
あるいは谷川健一さんから借用して「ヤポネシアの源流」と言えばいいのか、
まあとにかく、われわれのはるか祖先たちは、
ものすごい仕事をしでかしていたわけで。
「日本文化」というと、どうしてもワビサビ・禅のような、
無駄なものを一切省いた無為無念というか、そんなことに還元されてしまいそうだけれど、
こっちを源流にもつものは、こんにちどうなってしまったのだろう?
縄文の情念は、はたして途切れてしまったのだろうか?
岡本太郎が再発見するまで、眠ったままでいて、
いまもまだしっかり目がさめていないのではないだろうか・・・。
そんなことを、考えさせられました。
いや、実は縄文系の日本文化も、あるにはあるんです。
それはたぶん、土偶の「解釈」からはじめないといけないので、
またあらためてゆっくり書いてみたい、とは思うのですが。
まあともかく、「土偶」は私たちの誇り、なのです。
もっと言えば、ナラ林・落葉樹林帯、すなわち東日本の象徴であると、
東日本人であるぼくは、高らかに宣言したいのです。
(ちなみに西日本の照葉樹林帯では、土偶はほとんど出ません。
かわりに、弥生時代以降の「埴輪」がありますけれど)
ということで今回は、コトバではなく、縄文ネタになってしまいました。
ぼくの縄文好きも、かなりなもん、なんですよね。赦してくださいな。
前回は、「二人称」について書いてみたけれど、
こんどは「一人称」をやってみようと思います。
言うまでもなく、「わたくし」「わたし」(=私)が代表例、ですね。
そこで思い出したのだけれど、以前、吉行エイスケの小説を読んだ折、
女性の一人称に、「妾」の字がふってありまして。
文脈からして、「わたし」としか読めないんですよね。
ふーん、女性は「めかけ」と、へりくだってしまうのか。
男性の「僕」は「召使」。それと同じことなのだろうなあ・・・。
それはともかく、「私」から派生したバリエーションは、たくさん。
ちょっとちぢまって「わし」、関西の「わい」「わて」、
フラッパーな感じが濃厚な「あたい」、もちろん単純に「あたし」、
中谷美紀お得意の「わちき」などなど、
方言も入れれば、きっとたいへんな数にのぼると思われます。
あと、メジャーな一人称としては、
前回ふれた「僕」のほかにもうひとつ、「おれ」がありますね。
これはおそらく、「おのれ」から出たコトバなのでは、と思います。
さて、辞書(小学館版「大辞泉」)によれば、
「おれ」も「おのれ」も、古くは二人称でも使ったそうな。
考えてみれば、「手前」なるコトバも、そうかも。
「手前、生国とはっしまするは〜」は一人称。
近世までは、きっとこの用法があったのでしょう。
ところが今は、「手前ども」という改まったコトバを除いては、
二人称でしか使わないのでは、と思います。。
しかも「てめえ〜」といった形で、かなり俗っぽい言いかたになってますね。
でもね、そんな、一人称と二人称を行き交うコトバ、
関西にはちゃんと残っているのですよ。
それが「ジブン」。
大阪に来たばかりのころ、
ある人に「ジブンな〜」と話しかけられて、
どんな身の上話が聞けるのかと思いきや、
じつはお説教だった、という体験をしたことがあります。
どうもぼくには、「ジブン=一人称」という刷り込みがあって。
日本兵が上官のまえで敬礼しながら「ジブンは〜」、
あるいは、刑務所から出所した人が夜汽車の窓辺で「ジブンは〜」、
てなシーンを、どうしても思いうかべてしまうのですが。
まあ要するに、関西というところは、
古い日本語のスタイルが、よく残っている、ということなのでしょう。
おっと、河内弁の「われ」もそうだった!
「れ」にアクセントが来るんですね。
これなんか、面と向かって言われたら、さぞかしビックリするだろうなあ・・・。

ちょっと遅くなってしまったけれど、
あけまして、おめでとうございます。
今年はどのくらいのペースで更新できるか。
週一を目標に、がんばってみようと思います。
さあて、本年第一弾は、「人称代名詞」。
前からフシギに思っていたのだけれど、
「二人称」をあらわすコトバというのは、「地に落ちた」ものが多いなあ、
という気がしてなりません。
たとえば、今はケンカのときぐらいにしか使わない、「貴様」。
もとは、あきらかに敬語的な言いかたです。
それがしだいに、同輩の呼び名になって(♪貴様と俺とは〜なんかがそうですね)、
いまや相手をののしるときのものに、なり下がっています。
「あなた」も、そう。
たぶん語源は、「山のあなたの〜」みたいな、遠くをさす言葉だったに違いない。
つまり、「あなたが畏れ多くて、とおくてよく見えない」みたいな、
これもきわめてかしこまったコトバ、なのでしょう、本来はね。
それが、二人称の総称レベルにおりてきた。
いやむしろ、たとえば年上に面と向かって「あなた」などというと、
侮蔑的な態度の表明になったりもしますね。
考えてみれば、「君」だって、もとは「君主」だと思いますよ。
それが、いまの用法まで落っこちてきている。
ついでに「君」の対語は「僕」ということになりますが、
これは「しもべ」です。
つまり「君と僕」は、「君主と下僕」。
(しかし、並々ならぬへりくだり、ですねえ)
いまや、もともとの雲泥の差が、ゼロになってしまったわけで。
「おまえ」。これも漢字で書けば「御前」。
目の前にいるのは、とても尊いお方だったはずが、
むしろいまは、ちょっと乱暴な二人称です。
・・・まだ例はあるかも知れないけど、
おしなべて「地に落ちて」ますね。
なんでなんだろうね。
たぶん、だけれど、最初は「ちゃかし」だったのでしょう。
遊び心から、相手をやんごとなき呼び名で、呼ぶ。
それがだんだん人口に膾炙して、
そうするうちに、悪意を含むことが多くなってくる。
となると、もう歯止めがかからない。
コトバの「敬度」は、どんどん転落していったのです。
じじつ、いまもそういうことが進行中の言葉だって、きっとあると思いますよ。
たとえば「先生」なんかは、最近かなりアヤウイ。
まだ、ほんとうの「先生」に対して使うことのほうが多いと思われるので、
しばらくは大丈夫とは思うものの、
相手を揶揄した「先生」も、用法として確実にありますものね。
いやね、ぼくも「先生」と呼ばれることが、ままありますけれどね、
相手によっては、?と感じることが、ときたまあるものでね。
ま、結論としては、
日本語的にいえば、人称代名詞の多用は、どうもぎこちない。
日常的には、ぼくらは名前やニックネームなんかを積極的に使っていったほうが、
なにかと抵抗がなくてよいのかも、なんて思ったりもします。
役職名より、名前で呼び合う会社のほうが、なんとなくいい会社に見える、みたいな、
そんな感じで、ね。

待望の「大阪コピーライターズ・クラブ年鑑」が、出来上がりました。
編集長たるぼくが、ちょっとサボっていたせいで進行が遅れ、
こんな季節にまで、ずれこんでしまいました。
もうそろそろ、大手書店に並びだすところ。
暑苦しい表紙です。よく目立ちます。
ぜひぜひ、ご購入を!
(朝日新聞出版 定価1,500円/税込)
先日、たいへん面白い本を読みました。
金容雲著「日本語の正体」(三五館)というものです。
著者は韓国の数学者にして、日韓文化比較の大御所。
日本語の起源について、とてもユニークな説を展開しておられます。
もともと日本語は、百済語がベース。
つまりある時期まで、両国は共通の言葉を話していたのが、
韓国では中国語の影響を受けて音韻や語彙が大きく変わり、
日本では、仮名の発明などにより百済語が永く保たれることになった・・・
というのが要旨なのですが、
全体をとおして、膝を打つことしきり、でした。
ぼくの専門(?)は縄文時代なのですが、
縄文から弥生・大和王権への移行が、
話し言葉をキーワードに、他のどんな本より納得できた感じがします。
なるほどね(やはり劇的な民族の交代があったわけだな)・・・。
年鑑とともに、こちらもオススメしておきます。
ちなみにこの本、金先生は日本語で書いておられるそうです。
・・・これから支度をして、年末年始にそなえ東京に戻ります。
今年も、あっちゅう間だったな。
来年こそ、もっとマメにコトバネタを探しますので(またそんなこと言ってる!)、
ひとつ、よろしく。
そしてみなさん、よいお年をお迎えくださいね。

「大阪コピーライターズ・クラブ年鑑」第2号が、もうじき出来上がります。
初校時と再校時の2度にわたって、
版元の朝日新聞から、「赤」が送られてきたのですが、
「えっ?」と思わせるような直しが、ときどきあってね。
要するに、彼らは漢字を多用したがるのですよ。
たとえば、ぼくのパートにはいった赤で、代表的なものを紹介すると、
「眺めわたす」という言いかたに対し、「眺め渡す」ではないか、と来るわけです。
ぼくは別に、橋や船をつかって川や海を渡っているわけではないから、
この場合の「わたす」には漢字は当てない。
補助的な動詞はひらがな。それが僕の鉄則です。
ところが、新聞のコトバづかいでは、そうじゃないんだろうなあ。
これひとえに、広告の文体と、報道の文体の違い、なんでしょうね。
ぼくらは、開けるところはひらがな、を基本として文を書いてゆくからね。
まあ、直しの半分くらいが、この類だったような気がします。
報道本文ならともかく、表記のモンダイは書き手の判断にゆだねるのが本筋だと、
僕は思うのだけれど。どうなんでしょうかねえ。
さて、このことに関連しているかどうかわからないけど、
このごろ「未明」というコトバが、気になってしかたないのです。
「未明」って、何時くらいのこと?
辞書(例によって、小学館「大辞泉」)には、「まだ夜が明けきらない時分」とあります。
ぼくの感覚では、夜明け前、東の空が白みはじめる頃(とずっと思っていました)。
ほんらいの辞書的な意味では、とうぜんそうなります。
ところが、ニュースなんかでは、てっぺん過ぎあたりも、「未明」といっていますね。
「台風は今日未明に上陸・・・」これほどはっきりしない予報もないんじゃないかなあ。
そこで、「NHKことばのハンドブック 第2版」をあたってみます。
放送では、「午前0時〜3時ごろまでの事件をニュースなどで取り上げるとき」に使うようです。
やっぱりそうだったか・・・ちょっと、体感とずれてません?
とくにぼくのような、2時3時まではふつうに起きているような、
超夜型人間にとっては、この未明の用法は、まったくピンと来ないのです。
要はね、こういったコトバができ、流通していた時代と、
いまの人の生活感覚とのズレのモンダイ、なのだろうと思います。
つまり、ぼくに言わせれば、日付がかわってから寝るまでの時間帯を的確にあらわすコトバがほかにない、
ということにもなるんだけど。
そうなんです。たとえば「深夜」だと、
どうも午後11時くらいな気がするのだけれど、
昨今のテレビの「深夜帯」は、12時まわってる感じが強かったり。
「深夜」というコトバも、そういう意味ではかなり曖昧ですね。
まあでも、考えてみれば、「時間帯」だけでなく、
「季節」「歳時」に関しても、もっと大きなズレのなかで、われわれは生きているわけで。
寒さのヤマはこれから、というときに「新春」が来ちゃったりね。
もちろんこれは、旧暦と新暦とのズレだから、「未明」問題とは違うけどね・・・。
で、もっと問題な発言を、このまえNHKで聴いてしまいました。
あるアナウンサーが、
「W杯組み合わせ抽選会は、12月5日早朝1時15分から・・・」と、確かに言ったのです。
これって、どう・・・?
